天才仏師・運慶に魅せられた劇画家 さいとう・たかをが、運慶の生涯を壮大な歴史ドラマに仕立てました。その見どころを抜粋して、ご紹介します。
*一部フィクションです。
~風雲の章~
運慶、誕生。
1159年、平氏と源氏の戦乱が起こり、武士の時代がやってきました。
民衆は飢えと疫病に苦しみました。
運慶は、奈良仏師・康慶の息子として生まれました。
幼い頃から、仏像づくりに親しみ、やがて、父のもとで仏像を作り始めました。
運慶は父の工房で快慶と出会いました。
~火炎の章~
仏像の焼失。
興福寺炎上、
阿古丸と出会い結婚し、長男・湛慶が誕生します。
内乱が相次ぎ、またしても戦乱の時代に突入していきます。
平家の軍勢によって興福寺や東大寺、そして仏像も焼き払われてしまいました。
~地魄の章~
源頼朝の依頼。
焼け野原となった奈良ですが、ようやく復興し始めました。
その矢先に、弟子が命を落とします。
運慶はとても悲しみ、弟子のために仏像を彫りました。
その仏像を見た源頼朝が、北条時政への仏像を依頼します。
毘沙門天という仏像です。
時政が建てた願成就院に安置されたその見事な出来栄えの仏像は、頼朝をたいそう喜ばせました。
~天極の章~
不動のものに。
仏師運慶の名、
北条時政もこの贈り物にとても喜び、自身も仏像を依頼しました。
阿弥陀如来像や不動明王像、制吒迦童子像も、このときに作られました。
運慶の仏像は、たちまち人々の評判を集めました。
東大寺の巨大な仏像の再興という大仕事も任されました。
運慶と快慶の二人で仁王像を作ることになります。
とてつもない迫力の運慶と快慶の仁王像。
運慶は1223年に亡くなりましたが、今でもその仁王像は人々を圧倒しています。
運慶年表
- 安元2年 (1176)
- 円成寺・大日如来坐像を完成
- 治承4年 (1180)
- 平重衡が東大寺、興福寺に火を放つ。この後、運慶が復興に携わる
- 寿永2年 (1183)
- 法華経八巻の書写を発願
- 文治2年 (1186)
- 1月、興福寺西金堂・本尊釈迦如来坐像を大仏師・運慶が堂内に安置
5月、北条時政発願の静岡・願成就院の諸像を造る
- 文治5年 (1189)
- 和田義盛発願の神奈川・浄楽寺の諸像を造る
- 建久4年 (1193)
- 足利義兼発願の栃木・樺崎寺(廃絶)の大日如来坐像を造る
- 建久8年 (1197)
- 高野山一心院不動堂に八大童子像を造るという
- 建久10年 (1199)
- これ以前に足利義兼のために大日如来像を造るか
- 正治3年 (1201)
- 湛慶とともに瀧山寺の諸像を造るという
- 建仁3年 (1203)
- 快慶・定覚・湛慶とともに東大寺南大門の仁王像を造る
- 承元2年 (1208)
- 興福寺北円堂の造仏開始
- 建暦2年 (1212)
- 源慶・静慶・運覚・湛慶らとともに造った興福寺北円堂仏像が完成
- 建保4年 (1216)
- 11月、実朝の乳母大弐局発願の仏像を造る
- 貞応2年 (1223)
- 12月11日、運慶没
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