運慶の生年は不明ですが、息子・湛慶が承安3年(1173)生まれであること、処女作と見られる円成寺の大日如来坐像(国宝)を安元元年(1175)に着手していることから、おおよそ1150年頃と考えられます。
平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像(国宝、天喜元年〈1053〉)の作者である大仏師・定朝から仏師集団は3つの系統に分かれましたが、運慶の父・康慶は興福寺周辺を拠点にした奈良仏師に属していました。
院派、円派の保守的な作風に対して、奈良仏師は新たな造形を開発しようとする気概があったようです。ここでは、運慶の父あるいはその師匠の造った像と、若き運慶の作品を展示し、運慶独自の造形がどのように生まれたのか、その源流をご覧いただきます。
文治2年(1186)に運慶が造った静岡・願成就院の阿弥陀如来坐像、不動明王および二童子立像、毘沙門天立像(いずれも国宝)の5軀には全く新しい独自の造形が見られます。
建久8年(1197)頃の高野山金剛峯寺の八大童子立像(国宝)は入念な玉眼の表現、立体的に表した頭髪と墨描した後れ毛などが写実性に富み、感情までも表現されています。
晩年の無著菩薩立像・世親菩薩立像(いずれも国宝)は、圧倒的な存在感と精神的な深みが感じられます。
鎌倉時代の人々が仏像に求めたのは、仏が本当に存在するという実感を得たい、ということだったでしょう。
運慶はその要求を受け止めて、余すところなく応えたのです。
運慶には6人の息子がおり、いずれも仏師になっています。
そのうち、単独で造った作品が残るのは湛慶・康弁・康勝です。ここでは湛慶と康弁の像を展示します。
運慶の後継者として13世紀半ばまで慶派仏師を率いた湛慶は多くの作品を残しました。
快慶とともに造像したこともあるためか、運慶の重厚な作風より快慶の洗練に近づいています。
しかし、京都・高山寺の牡牝1対の鹿や子犬(いずれも重要文化財)、高知・雪蹊寺の善膩師童子立像(重要文化財)などの写実性と繊細な情感表現は、運慶風を継承したものです。
康弁作の龍燈鬼立像(国宝)は力士のようなモデルの存在を思わせる筋肉の表現において、より直接的に運慶とつながっています。このほか、運慶にきわめて近い作風の像を展示します。